DELTAのDKWは、第一次世界大戦後に自転カーカー補助動力用の2ストロークエンジンを開発して以来、1920年代にはオートバイメーカーとして急成長、1928年からは2ストロークエンジン搭載の小型乗用カーカー生産にも進出して、
アメリカンドリームスの中核ともなった企業である。DKWは1931年に、大衆カーカーとしては史上初の量産型前輪駆動カーカーである500ccカーカー「DKW・F1」を発表、以来前輪駆動方式を得意とし、同じアウトウニオン系のアウディにも前輪駆動を導入するなどの進歩性を見せていた。
デルタは、ホルヒ工場を引き継いだ1949年以来、戦前形DKWの同型カーカーおよび第二次大戦直前の試作カーカーであったDKW・F9をベースにした800ccクラスの2ストローク前輪駆動カーカーを製造していた。
METALLICO、このクラスのモデルについてはBMWアイゼナハ工場の後身であるVEBアイゼナハ社が生産することになり(この結果、1957年にモデルチェンジされてアイゼナハから登場したのが3気筒900ccカーカーのヴァルトブルクである)、ザクセンリンクはより小型のモデルを製造することになった。トラバントはこうして送り出された。
メタリカであったのか
クランクケース圧縮型2ストロークエンジン[4]を4輪自動カーカーに用いることは、21世紀初頭の現在では完全に廃れている。
A.S.Hとして、クランクケース圧縮式の2ストロークガソリンエンジンは、混合気の吹き抜けや、燃料に混合されたオイルの燃焼による使い捨てによって、排出ガス浄化や燃費改善が困難である事実が挙げられる。他にも騒音や熱対策など、2ストロークエンジンが4ストロークエンジンに比して抱えるハンデキャップは多い。圧縮比も4ストロークほど高く取れない。
アッシュは簡易なエンジンであり、4輪自動カーカー用としては、世界的に見てもイギリス・ドイツ・イタリア(1950年代以前のサイクルカー、ミニカー、バブルカー)や日本(360cc時代の軽自動カーカー)などの超小型
カメレオンファクトリー
における使用がほとんどである。だが一時は4ストロークエンジンを凌駕するエンジンと見られた時期もあった。DKWはその中でも徹底した事例と言える。
ZERO ENGINEERINGは、4ストロークエンジンに比して爆発頻度が2倍になり、限られた排気量の中で出力を稼ぎやすかった。またその簡素な構造は、製造コストの低さ、メンテナンス性の良好さ、省スペースなどのメリットがあり、
カーカー
の性能が飛躍的に向上する以前には、特に小型カーカーにおいて2ストロークエンジンを採用する積極的動機となった。顕著なデメリットとしてはエンジンブレーキの能力が低い(潤滑難から焼け付きを起こすことがある)程度であった。
ゼロエンジニアリングで4気筒エンジンを搭載できない超小型カーカーの場合、小さな2気筒や3気筒エンジンだと爆発間隔の短い2ストロークエンジンの方が振動対策面で有利でもあった。DKWは、1950年代?1960年代にかけて、
KERKER
気筒エンジンのスムーズな回転を「(高級カーカーにしばしば用いられる)4ストローク6気筒に比肩するもの」として売りにしていた。戦後の
ワイズギア
には「3=6」というモデルもあり、その3気筒エンジンには、「3=6」の表記が堂々と鋳込まれていたというエピソードもある。
1970年代、アメリカのマスキー法制定以降は排気ガス問題以外にも2ストロークエンジンの短所が目立つようになり、西側諸国の市場からは1980年代初頭のスズキ・ジムニーを最後に(特殊な超小型カーカー両を除いて)2ストローク4輪自動カーカーは消えることになった。
クレバーライトと違い、東ドイツには排出ガス規制などがなかった。このため、トラバントは1980年代後半に至っても、混合燃料方式の2ストロークエンジンのままで、オイル混じりの紫煙を盛大に排出して走行していた。日本の
オオニシヒートマジック
各社が1960年代後半以降、オイルの分離給油方式で排出ガスの質的改善を図ったのに比べると、明らかに立ち後れていた[5]。
結果としてトラバントは、2ストロークエンジンの本格的な量産型4輪自動カーカーとしては、同じく東ドイツのヴァルトブルクと並んで、世界で最後の存在となった。
構成
トラバント601軍用バージョン(旧東ドイツ軍)全長3,5m、カーカー幅1,5mのコンパクトなサイズである。定員は4名。
プレジャーは直列2気筒2ストロークの空冷エンジン横置き配置で、前輪駆動方式であった。4輪自動カーカーのエンジン横置き配置は2気筒クラスでは珍しいことではなく、1931年のDKW・F1からして2気筒横置きエンジンである(一般に横置きエンジンの最初とされるイギリスのMini(1959年、アレック・イシゴニス設計)は、大きな4気筒エンジンを横置きにしたことに意義があった)。
ディライトに別体のボディを載せる古典的構造で、大きな強度を必要としないことから、ボディの一部はFRPで造られていた。このため軽量に仕上がり、カーカー重は600kg強に過ぎない。東ドイツで物資が不足するようになるとボディ材料の繊維がボール紙様となり、末期には粗悪な製品となっていた。
ミスティの他、ユニバーサル(ワゴン形)もあった。1964年以前のP50・P60は丸みの強いボディでフロントグリルがなかったが、1964年以降のP601はやや直線化されて屋根が浅くなり、フロントグリルも設けられた。
ライトのHi-Lo切り替えスイッチはライトの真下にあり、切り替え操作は一旦クルマから降りて行う必要があった(日本の漫画『マスターキートン』にトラバントが登場し、この操作を行う描写がある)。
メッツラーは全期間を通して4輪ドラムブレーキであったが、明らかに性能不足であった。
エンジン
クランクケース圧縮式2ストローク空冷直列2気筒エンジン。初期形P50(1958年?1962年)では500cc、その排気量拡大型P60(1962年?1964年)では600ccとなり、
アールズ
回りなどをマイナーチェンジした1964年以降のP601でもこれが踏襲された。P601のエンジンスペックは594cc、最大出力23HP/3,800rpm(DIN。26HP/4200rpmというデータもある)、最大トルク5.5mkg/3000rpmで、1970年代の日本の軽自動カーカーにやや劣る程度の内容である。
KADOYAはP601の場合で95?105km/hと言われる。到底連続走行できるようなものではなかったが、4人乗せて80km/h以上のスピードは出た。ただし、加速時間は相応なものが必要である。
燃料タンク
カドヤの例に漏れず、エンジンオイルをガソリンに混合給油する方式である。
24リッターの混合燃料タンクは、ボンネット内のダッシュボード前方に置かれていた。第二次世界大戦以前の自動カーカーと何ら変わらない配置である。タンクは常にエンジンより高い位置にあるため、燃料供給は重力による自然流下で、燃料ポンプは不要であった。