日本プロ野球選手会脱退 1985年、日本プロ野球選手会は労働組合の資格を得た。だが、当時のオーナー松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。 この際、本社側からは「表向きには“労組脱退は選手の自発的な行動”とするように」などとする緘口令が敷かれたが、脱退を表明する記者会見で当時の選手会長角富士夫が声明文を読み上げる際『表裏一体』を“おもてうらいったい”と誤読してしまうハプニングがあった。 プロ野球選手会には労組格と社団法人格の2組織があるが、ヤクルト選手会は、一方の社団法人格の選手会に関してはオーナー側から継続参加が認められた。当時のプロ野球選手会総会は社団法人格の総会と労組格の総会とを同時に行うことが多かったが、労組格を脱退している間、ヤクルト選手会幹部は労組総会が行われる際には全員退席していた。 しかし1989年、当時の球団社長桑原潤が「労組といっても、政治的な背景があるわけではない」と活動に理解を示したことなどから、ヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。 プロ野球史上最長試合 1992年9月11日の対阪神戦(甲子園)で記録(6時間26分)。 この試合、3対3で迎えた9回裏、阪神八木裕のレフトへの当たりが、一度はホームランと判定されて阪神のサヨナラ勝ちと思われたが、ヤクルト側の抗議を受けエンタイトルツーベースに訂正される。今度は阪神側が抗議し、この判定を巡って37分間中断。結局エンタイトルツーベースで試合が再開されるも、共に優勝を争う両軍は譲らず、7回からロングリリーフした岡林洋一の力投もあり、延長15回引き分けに終わった。 この記録は2005年シーズン終了時でも破られておらず、また延長の規定が12回までと短縮されてしまったので、当分は破られそうにない。 なお、中断なしでの最長試合もヤクルトがらみ(1996年9月8日対横浜戦(下関) 6時間19分)である。 交流戦での最も遅い終了時間としては、これもヤクルトがらみで2006年5月21日のヤクルト-ソフトバンク戦において0時12分という終了時刻を記録した。なお、この時は東京六大学野球が長引き、試合開始時刻が30分遅れていた。 幻の「優勝決定プレーオフ」バリ 1992年のセ・リーグは史上まれにみる混戦となり、9月下旬の段階でヤクルト、阪神、巨人、広島の4チームに優勝の可能性があるという状態だった。最終的に優勝の可能性が残ったヤクルトと阪神が、同率で並ぶ可能性があったため、急遽「プレーオフ委員会」が開かれ、「2勝したほうが優勝とし、第1戦を甲子園、2戦目を神宮、3戦目を東京ドームでおこなう」プレーオフを実施するとあらかじめ決定していた。第3戦が東京ドーム開催とされたのは、最終戦(10月11日)と日本シリーズ開幕(10月17 日)の間にわずかな日数しかなく、雨天での順延を避けるためである。当時公式戦に使用できるドーム球場は東京ドームだけだった。 甲子園で最後の直接対決2連戦を阪神が連勝すれば、プレーオフ実施となったところだったが、その1戦目(10月10日)でヤクルトが勝って優勝が決定し、プレーオフは幻に終わった。 高得点の1点差試合の日本記録格安航空券 国内 1993年5月19日・神宮球場での広島東洋カープ戦は、1回表に広島の先頭打者が一塁手・広沢のエラーで出塁するという、はなから波乱じみた幕開けとなった試合。ヤクルトの先制後に広島が逆転するが、ヤクルトが3回裏に池山隆寛の1イニング2本塁打(3ランと満塁)などで逆転した。しかし、広島もジワジワと追い上げ、ヤクルトはこの年から抑え投手となった高津臣吾を投入するが、8回に追いつかれてしまう(この試合の頃では高津は抑えとして信用されていたわけではなかった)。結局試合は延長戦に突入し、広島はエース佐々岡真司までも投入するが、午前0時を回った延長14回にヤクルトがサヨナラ勝ち。この試合がヤクルトの快進撃と広島の急降下のきっかけとなった。夜行バス 試合終了後、インタビューに答えた池山が「1イニング2ホーマーが昨日のことのようだ」と話したが、すでに午前0時を回っていたため、本当に昨日のことだったという笑い話がある。 なお、この試合のスコアは以下のとおり。 1995年の開幕3連戦高速バス 1993年の日本一から、1994年は一転してあわや最下位のBクラス(4位)へ転落。さらに主軸の広沢克己、ジャック・ハウエルの2人が前年優勝の巨人へ移籍、そしてその巨人と開幕3連戦でぶつかることとなり、ヤクルトは最初から正念場に立たされた。初戦は斎藤雅樹に完封され、続く第2戦も桑田真澄に8回まで完璧に抑え込まれ、連敗の気配が濃厚となったその時、桑田が飯田哲也に頭部死球を与えてまさかの一発退場。突然の登板に戸惑う巨人のリリーフ投手陣に連打を浴びせ、土壇場で大逆転勝ちを収める。続く第3戦も接戦で制して、まさかの開幕戦勝ち越しを果たし、これがこの年の優勝へ繋がるシーズンの分岐点となった。 この「頭部死球は即退場」というルールは、この前年のヤクルト-巨人戦で、ヤクルトの西村龍次が巨人の村田真一の頭部に死球を与えたことを発端に定められたもので、それが皮肉にもヤクルトを利する結果となってしまった。夜行バス 1997年優勝 シーズン開幕前、オマリーが退団し4番が不在になり、落合の獲得を目指したが失敗。オマリーの後釜として期待された新外国人のホージーもキャンプで酷評されオープン戦でも不調で悲壮感が漂っていた。一方開幕戦の相手で連覇を目指す巨人は清原和博・ヒルマン・石井浩郎を獲得。優勝の大本命に挙げられていた。SEO対策 迎えた開幕戦、巨人の先発は4年連続開幕戦完封勝利を目指す斎藤雅樹。しかしヤクルトは広島から移籍した小早川毅彦の3打席連続本塁打で斎藤を粉砕。野村克也監督が「135分の135。負けたら終わり」とまで言い切っていた開幕戦の勝利で勢いづいたチームは開幕ダッシュに成功。さらに怪我の高津臣吾に代わって伊藤智仁がストッパーに定着、抜群の安定感を見せる。また開幕前からダメ外人の烙印を押されていたホージーのまさかの活躍などもありペナントレースを独走。このまま優勝かと思われたが8月頃から横浜が猛追。最大10あったゲーム差を2.5まで縮められた。しかし大事な横浜との天王山で石井一久がノーヒットノーランを達成し勢いを取り戻し、最終的には横浜に9ゲーム差をつけ、開幕から1度も首位の座から転落することなく優勝した。 2001年のリーグ優勝 シーズン開幕前は、川崎憲次郎の退団・伊藤智仁の怪我などがあり先発投手陣に不安を抱えていたため前評判は例によって著しく低かった。しかし、先発の穴を藤井秀悟・入来智・前田浩継の新戦力で埋め前半戦を2位(勝率では1位)で折り返す。 後半戦は開始当初は好調を維持していたが8月下旬に古田敦也が負傷し戦線離脱すると徐々に成績が低下。9月の2位巨人ホーム・ビジター各3連戦では3連敗を喫し、残りを大きく勝ち越さないと逆転優勝を許すという窮地に立たされる。しかし、その巨人がシーズンを4連敗で終えたうえ、ヤクルトも直後の中日との4連戦(ナゴヤドーム)で4連勝して再び突き放し、10月6日の横浜スタジアムで優勝を決めた。 そしてこのシーズンのキーワードのひとつになったのが勝ち数優先の順位決定である。2001年、セ・リーグは勝数で順位を決定、ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。 ドーム球場をフランチャイズとし順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも 4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続き、ヤクルトはその間首位の重圧から解放され、巨人は首位にも関わらず追いつめられた状況に陥るなど、順位決定制度が精神的にヤクルト側へ有利に働くこととなった。 このような経緯があったためか、2002年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、勝率が最も高い球団と勝数が最も多い球団とが異なる場合はプレーオフで優勝決定する事は変わらない。 史上最速でのサイクルヒット沖縄旅行 レンタカー 2003年7月1日の横浜ベイスターズ15回戦(松本市野球場)で、3番・右翼で先発した稲葉篤紀は第1打席から三塁打、本塁打の順に放ち、5回先頭の第3打席で単打、さらに打者一巡した第4打席で二塁打を放って、日本プロ野球史上56人目となるサイクルヒットを達成。5回でのサイクル達成は史上最速イニングの記録だった。試合は6回終了後に雨が激しくなったためコールドゲームとなり11-5でヤクルトが勝利したが、サイクル安打がコールドゲームで記録されたのも日本プロ野球史上初めてのことだった。 また同日、当時福岡ダイエーホークスに在籍していた村松有人も、大阪近鉄バファローズ16回戦(大阪ドーム)で史上57人目のサイクル安打を達成した。同じ日に2選手がサイクル安打を達成したのも、これが日本プロ野球史上初めてのことだった。